国立大学法人法「改正」案、12月1日(金)に参議院本会議で審議入りしました。
このblogでも、すでに「国立大学法人法「改正」案の問題点①:隠蔽された立法事実」と「国立大学法人法「改正」案の問題点②:「規制緩和」という誘惑」という記事を書いていますが、衆議院での審議とその後の関連報道を通じて明らかにされた事実をふまえて、あらためて問題点をまとめてみます。
まず「ボトムアップな民主的手続きの否定」と「「稼げる大学」への変質」という2点に即して検討します。
今回の法案の問題点は、この10年くらいの大学政策、そのなかで大学が置かれている現状をふまえないとわかりにくいところがありますので、どうしても長文となってしまいます。X(旧Twitter)に投稿するような短い文章、ショート動画こそ時代の趨勢として拡散力をもつことを認めながらも、書き込んだ文章が役に立つこともあるかもしれないという思いで記します。
一、ボトムアップな民主的手続きの否定
盛山文科大臣は、12月1日の参議院本会議で運営方針会議の設置がなぜ必要なのだと問われて、「教育研究体制の充実のためだ」と答えました。ですが、なぜ「教育研究体制の充実のため」に新たな合議体(運営方針会議)を設置する必要があるのか、なぜ現状では不十分なのかということの説明にはなっていません。つまり、質問への回答になっていません。
衆議院本会議では「多様な専門性を有する方々に大学運営に参加していただくことで、法人の運営方針の継続性安定性が確保される」と説明しました(『朝日新聞』2023年11月7日、2023年11月15日衆議院文教科学委員会でも同様の趣旨の発言)。
こちらの方がまだしも内容がありますが、①「多様な専門性を有する方々に大学運営に参加して」もらう体制という点については。すでに国立大学は、経営協議会に過半数の学外者を含めたり、理事の中に複数の学外者を含めたりすることで対応を迫られています。それでもまだ不十分という理由は明らかではありません。
②「法人の運営方針の継続性安定性」という点について。かりに学長が交替したとしても継続すべきことは継続し、変革すべきことは変革すればよいのが当然です。むしろ国や政党のトップであれ、企業のトップであれ、大学のトップであれ、在任期間に上限を設けて交替することが組織の新陳代謝を進め、権力の長期化にともなう腐敗をふせぐために大切というのが一般的な認識です。自民党の総裁ですら「連続3期9年」(2016年までは「連続2期6年」)という任期の上限があります。(中国では2018年に国家主席の任期を「2期10年まで」とする憲法の条文を削除して、いつまでも在職できることが可能となりましたが、今のところ日本では)自民党総裁の任期の上限を撤廃すべきだという議論はさすがに出てきていません。「継続的安定性」が大切だとしても、権力の長期化のもたらす弊害の方が大きいということが常識的な判断であるからです。ところが、国立大学の場合には「継続的安定性」を優先すべきというわけです。なぜでしょうか?
この10年近くのあいだに、学長選考に学外者の意見を強く反映させることで「継続的安定性」を図ろうとする政策が次々と打ち出されてきました。第二次安倍内閣は2014年に学校教育法・国立大学法人法を改正し、教授会の権限を弱める一方、学長の権限を強化しました。この時の法改正にともなう施行通知により、学長選考にあたって学内の教職員による投票の結果よりも、学長選考会議(半数は学外者、半数は学内者)の判断を優先すべきという方針を示しました(左図参照。「第212国会(臨時会)国立大学法人法の一部を改正する法律案(閣法第10号)参考資料」参議院文教科学委員会調査室、2023年11月)。学長選考の具体的な手続きは大学により違いがあるものの、これを契機として選考会議が投票を廃止するケースや、「意向調査」として投票は行うものの投票で敗れた者を学長に選出するケース(2020年筑波大学、2021年大阪大学、2023年東京学芸大学)が相次ぎました。筑波大学の場合には、2020年の学長選考に先立って学長の任期の上限を撤廃して、終生にわたって在職できる仕組みとしました。
これは学長による組織統治の「継続的安定性」を図るための措置とみることもできます。ですが、本来ならば、学長が大学「改革」のためのリーダーシップを発揮するためにも、投票という手続きを通じて学内の支持を集めることが必要不可欠はなずです。国政を例に考えれば、有権者による投票の結果をひっくり返して、外国政府の意向で選ばれた人物が国会議員や内閣総理大臣に選ばれたとして、その人物の意向にしたがえというのは難しいのではないでしょうか? 投票という民主的な手続きと言葉本来の意味でのリーダシップは表裏一体です。投票による信任のないところで発揮される「リーダシップ」は単なる独裁にほかならないからです。かりに学長の推進する「改革」の方向性が正しいとしても、学長への信任も、学長による説明もないところで「改革」が順調に進むはずもありません。
2020年には、筑波大学ばかりではなく、東京大学や京都大学でも学長選考(旧帝国大学では慣例で「総長」という呼称を用います)の手続きの不公正・不透明が大きな問題となりました(東大新聞特設サイト、京大職組公開質問状)。
不透明な手続きで選ばれた学長は、総じて政府の意向を忖度して無理にでも「改革」を押し進めようとする傾向があります。これに対して、学内ではボトムアップな意思決定の仕組みの再構築を求める声があがっています。それは必ずしもトップダウンの意思決定を全否定するものではありません。ですが、多様な声がかき消されてしまいがちな現実を問題視しています(自由と平和のための京大有志の会「次のステップに向けての声明」)。
専断に走りがちな学長と、研究・教育の現場にある者の対立が深まっている現実に着目することで、今回の法案の意図もよく理解できます。すなわち、たとえ学長が学内からの批判に直面して動揺したとしても、さらに「上から」学内での異論や批判を抑え込むために、運営方針会議の設置が求められているとみることができます。
運営方針会議が学長選考について意見を述べ、さらに学長の解任を発議する権限をもっている点も重要です。運営方針会議を通じて「法人の運営方針の継続性安定性」を保つとは、政府の求める「改革」にしたがわない学長が選出される事態を未然に防ぎ、万が一選出されてしまった場合には恒常的に監視した上で場合によっては解任も辞さないという意味だと解釈できます。
衆議院文部科学委員会での附帯決議では、第5項において「運営方針委員の任命に係る文部科学大臣の承認」に際しては「大学の自治を尊重するための制度的担保の重要性」をふまえるべきであり、「万一、承認を拒否する場合には、その理由について丁寧に説明を行うよう努めること」と記しています。ですが、「丁寧な説明」がいとも簡単に空文化するであろうことは日々の国会を見ていれば明らかです。
二、「稼げる大学」への変質
それでは、政府が求める大学「改革」とはどのようなものなのでしょうか? その「改革」の内容について日本社会の住民の多くが納得し、支持しているのならば、たとえ大学の学内者が反対したとしても断固たる決意で推進すべきということもありえます。ですが、実際には「改革」の方向性について社会的合意がえられているとは、必ずしもいえないのではないでしょうか?
政府が求める「改革」の方向性を象徴しているのは、昨年5月に成立した国際卓越研究大学にかかわる法律です(文部科学省「国際卓越研究大学制度の概要」)。国公私立大学の中から卓越した研究成果を期待できる大学を「国際卓越研究大学」として認定し、10兆円大学ファンドの運用益を交付するという制度です。この構想が練られる過程で、大学の「最高意思決定機関」として、学外者を中心とする合議体の設置を要求することとなりました。今回の法案におけるガバナンス(組織当地)強化の議論の契機となったのが国際卓越研究大学構想だということは盛山文科大臣も衆議院本会議で認めています(11月7日、衆本)。
この国際卓越研究大学の性格を端的にあらわすのが「稼げる大学」です。これは、内閣府総合科学技術イノベーション会議(CSTI)の設置した「世界と伍する研究大学専門調査会」)において、「ベンチャーの旗手」として知られる金丸恭文氏が打ち出したコンセプトです。「稼げる大学」とは、新しい技術や新しいアイデアなど研究成果を活用して経済的価値を創出し、産学官が連携しながらこのシーズを知的財産として成長させ、ベンチャー企業創出など事業化を進めるシステムの中核をなす大学のことです(科学技術・学術審議会大学研究力強化委員会「国際卓越研究大学の研究及び研究成果の活用のための体制の強化の推進に関する基本的な方針(素案)」2022年8月31日)。
戦後半世紀以上のあいだ、大学、とりわけ国立大学は「稼ぐ」という目標とは無縁でした。単に世間知らずの大学人が金儲けに無頓着だったということではありません。私立大学の場合には、私立学校法でさまざまな制限が設けられているとはいえ学校法人による収益事業が認められてきたのに対して、国立大学の場合には2004年に法人化される以前はもちろん、法人化以後も収益事業への関与は原則的に禁止されてきたのです。「稼ぐ」ことを目標としてしまったならば、研究と教育という国立大学本来の役割がおろそかになってしまうおそれがあったためです。
大学の基本的な役割は学生を教育して専門的知識や技術を身につけた社会人として送り出すことです。ですが、国立大学の授業料の上限は法令(省令)によって定められているので、どんなに教育を充実させたとしても「稼ぎ」につながるわけではありません。
研究では、特許などの知的財産権が「稼ぎ」につながる可能性ががあります。ですが、それは自然科学系の中でも限られた分野である上に、特許につながるような発明を計画的に生み出せるわけではありません。研究という営みは定型的な業務とは異なり、これまで明らかにされてこなかったことを解明することですから、どうしてもある種の「偶然性」に左右されざるをえないところがあるのです。
人文・社会科学系の学問の場合、ほとんどの領域が「稼ぎ」にはつながりません。ですが、小学校から高校までの教科教育や入学試験に確かな知識の土台を提供するために必要とされています。さらに、たとえばウクライナ戦争が生じた際にウクライナにかかわる知識と理解が切実に必要とされたように、特定の地域の研究に思いがけない重要性が付与されることもあります。それぞれの地域の言語を習得して土地勘を身につけた研究者を養成するのに少なくとも10年はかかる以上、もしも現状で重要性が小さく見えるからということで特定の地域の研究を廃絶してしまったら、とりかえしのつかないことになります。学術が社会の「役に立つ」ことは大切だとして、なにがどのように「役に立つ」のかは予測のつかないところがあるのです。
教育はもちろん、研究もかならずしも「稼ぎ」につながるとはかぎりません。結局、以前の記事「国立大学法人法「改正」案の問題点②:「規制緩和」という誘惑」にも記したように、「稼げる大学」となるための有力な手段は大手企業などに土地を貸し付けることとなります。いわば企業に大学の土地を活用したビジネスチャンスを与える、企業に「稼げる」機会を与えることで、大学もその分け前にあずかることが想定されているわけです。国立大学の場合、2004年の法人化以来、基盤的経費が削減されてきた上に、2016年以降は恣意的な基準で傾斜配分されることになったために、多くの学長たちが企業に「稼げる」機会を与える方向に活路を見出さざるをえない状況に追い込まれています。大学の基盤的経費カットの理由としては国の予算が全体として圧迫されているためと説明されていますが、むしろ予算を枯渇させることで企業との連携に向かわざるをえない方向に仕向けているとみることもできます。
大学が土地を活用して収益を上げるのはよいことのようですが、キャンパスの空間を切り詰めていくことは学生にとっては大きなマイナスです。運動場、体育館、図書館、寄宿舎、学生控室、サークルボックス…学生にとっては重要な場所がたくさんあります。土地の切り売りが、学生の福利厚生にとって、あるいは、青年期の人間形成にとってマイナスの影響をもたらさないか、慎重な考慮が必要です。
土地のことばかりではなりません。「稼げる大学」への変質が、大きな組織再編という形で具体化されることが懸念されます。短期的に「稼げない」「ムダ」な研究を担う学部や専攻を廃止したり、カリキュラムを大きく改変してしまうということです。大学の多様性、学問の多様性を狭めることは若者たちの学びにかかわる選択肢、さらには職業選択を含む生き方の選択しを狭めてしまいます。ところが、国際卓越研究大学にかかわる文科省の検討会議では、合議体に対して学部の改廃や、カリキュラムの変更についても意見を述べる権限を与えるべきだという議論がなされてきました(文科省「世界と伍する研究大学の実現に向けた制度改正等のための検討会議」第4回、2021年11月25日)。
衆議院文部科学委員会での附帯決議では、第3項において「〔運営方針会議は〕教育・研究分野の改廃など組織の再編に関わる審議にあたっては、現場の教職員や学生の意見を十分に反映させるように努めること」と記しています。
重要な内容ではありますが、「現場の教職員や学生の意見」を踏まえることなく学部や専攻などの組織の改編が行われたとして、異議申立をできる仕組みや現場の意向で運営方針委員を解任できる仕組みが具体的に整えられているわけではありません。すでに強引な組織の改廃が多くの国立大学で進められています。京都大学を例にとれば、大学教育のあり方を改善するための全国的な拠点であった高等教育研究開発推進センターや、メンタルな問題に悩む学生にとっての「命綱」であった保健診療所が「コストカット」を理由として廃止されました(「京大の「知の共有財産」喪失に危機感。組織改編で廃止のセンター、軒並み「業務終了」」、「京都大学保健診療所を廃止しないで下さい」)。
経営協議会や学長選考・監察会議がすでに存在するにもかかわらず、さらに屋上屋を架すように運営方針会議を設置するのは、学長がためらいを見せた場合でも強引な「組織の再編」をできるようにするためと考えられます。
国立・私立を問わず、学問の場としての大学の終わりを加速させる動きが進行しています。皆さんの取り組みは貴重です。
返信削除一般人としての感想ですが、「稼げる大学」という国策は「学術会議への任命拒否」に見られた学問の自由に対する重大な侵害行為だろう。これに反論しなければ政権の越権行為を黙過することになり、基本的人権が守られないことになる。一般人としても反対の声を挙げます。
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